「アジアが共有する同時代の演劇」についてどのような認識を持つことができるのか。私たちはまだまとまった経験を持っていません。今回の3つの作品は、この大きな問いに向かって、2つの側面から、それぞれの糸口を差し出すものと考えています。
グローバルな資本主義と情報社会を背景として、アジア地域はそれなりに共通した前提をもつこととなりました。社会の成熟と個人の自立をめぐる『ヒッキー・カンクーントルネード』と『幼女X』は、そうしたアジアの「現在」の共有に手を伸ばすものといえます。
一方で、「現在」の共通性が高まるほど、アジアの文化的多様性/各地域の異なる伝統を、その多様性において共有することの重要性が高まっていくに違いありません。「現在」を含みつつもイコールでは結べない「同時代性」をより根本から捉えようとするとき、ギリシア時代と現代の戦争の記憶を重ね、日本の文化的背景が引き継いできた資源を同時代へと交差させるSCOT『トロイアの女』ほど、相応しいものはないと考えました。
TPAMディレクション
ユニークな活動を行なっている制作者をディレクターに選任、自由なコンセプトと新たな視点で作るプログラム。それぞれのディレクションを通して同時代的アイデアや課題を共有し、ともに舞台芸術の可能性を考察します。
野村政之
演劇制作者
1978年長野県生まれ。劇団活動、公共ホール勤務を経て、2007年こまばアゴラ劇場・劇団青年団制作部に入る。並行して若手中堅の演出家の公演にドラマトゥルクなど様々な形で参加。アサヒ・アートスクエア運営委員、桜美林大学非常勤講師。2014年10月より(公財)沖縄県文化振興会プログラム・オフィサー。
ハイバイ
範宙遊泳 × Democrazy Theatre
このディレクションでは、「ダンサー」の仕事について注視したい。厳密に定められた<振付>を通して、またある一定のルールに基づいた即興性の強い構造を通して、ダンサー達は「ダンスになる瞬間」をどのように起こすのだろうか。踊ることを人生の選択として選んだ人々によって焚かれるダンスになる瞬間を味わいたい。そして、<振付家>はその「ダンスになる瞬間」を引き出す(引き起こす)思想や方法を構築しては脱構築し、身体性を伴いながら更新を重ねてきた先に、現在、“身体”を通したあるいは“身体”を通して世界をどのように見ているのだろうか。日本あるいはタイを拠点に、既存の思想や方法を越えた地平を独自に編み出し、新たな文脈を創出している黒沢とピチェの代表作の現在形を提示する。同時に、「ダンスは社会に役立つか」という命題から、そして「“私が”踊る理由」という事情から、自由になれるだろうか。無意味であること、個人の事情に属さないこと、「ダンスがダンスであること」が成立する場について考察したい。上記の二つの軸が交差すると確信した二作品を上演します。
横堀ふみ
NPO法人 DANCE BOX プログラム・ディレクター
1999年よりDANCE BOXに関わる。2006年度文化庁新進芸術家国内研修制度研修員。2008~2009年ACC(Asian Cultural Council)のフェローシップにより約6ヵ月間、アジア6ヵ国とNYにおいて舞台芸術の実態調査を実施。神戸・新長田にてArt Theater dB神戸を拠点に、「ダンス」「地域のコミュニティ」「劇場」を結ぶプログラムを試行し実践しながら、主にアジア間におけるネットワークの構築を目指している。
ピチェ・クランチェン
黒沢美香&神戸ダンサーズ
2年間を通して「演劇」の定義に対する拡張と疑心をテーマに、現在の劇場機能において失われている視点、「演劇」を発展させる視点について模索してきました。劇場は再び垣根なく人が集えるコモンとして機能することができるのだろうか、また劇場型の《見る→見られる》という関係性で我々は本当に観客と「演劇」を共有できるのだろうか。昨年のTPAMディレクションで、作品の展示会場が「演劇」と「日常」が交差するサロンとして機能したことに、「日常」とつながる「演劇」の可能性を感じました。土地や街の歴史が戯曲の礎となり、そこで暮らす人々は俳優にも観客にもなる、「日常」に、「演劇」が《ある》という状態が可能なのではないか。私が今回選出したアーティストは、批評と編集を生業とするふたり組のユニットです。彼らの活動の源には、土地、その地に住む人への強い関心があります。彼らの試行が劇場をよりパブリックな場に拡張させ、より多様な観客との関係を築ける「演劇」を生み出せるのではないかと考えています。
宮永琢生
制作者・プロデューサー
1981年東京都生まれ。劇団ままごとプロデューサー。企画制作ユニットZuQnZ(ズキュンズ)主宰。劇団青年団の制作に携わり、2009年に劇作家・演出家の柴幸男と共に劇団ままごとを起ち上げる。近年は、劇場公演のプロデュースと共に劇場空間外での作品創作を積極的に行っている。
BricolaQ
地理的にはコンパクトでありながら非常に豊かで多彩な文化を持つ東南アジアは、一世紀にわたる植民地主義を経験した後、民族主義、軍の独裁、都市化、そして新自由主義を経て現在にいたっている。その認識論的暴力の歴史は、場所、そして自己の「ずれ」をテーマにした非常に豊かなコンテンポラリーの表現を生み出しつつある。TPAMでは今後そうした錯綜した歴史の遺産と複雑な様相を呈する今日の現実を捉えようとするアーティストや作品を取り上げていこうと思う。インディペンデントで活動するコンテンポラリーのアーティストの目を通して、私たちは身体や身振り、言語を形成していく文化横断的なプロセスの中から不可避的に立ち起こるアイデンティティの多層的な反復や遷移を体験していくだろう。
アイサ・ホクソン(フィリピン)の三部作やムラティ・スルヨダルモ(インドネシア/ドイツ)の作品は、女性のパフォーマンス性に関して実に多くの読解を可能にしてくれる。彼女たちの身体が複数の文化空間を行き来しながら生み出す表象や思索は深くかつ不安定なものを秘めている。アイサ・ホクソンは仕事として演じているポールダンスのショーを芸術の分野へと移植することによって自身のイメージを拒絶し、その後、マニラのサブカルチャー的なクラブのマッチョダンサーへと生まれ変わり、ついにはフィリピンからやってきて日本のサラリーマンが通うスナックのホステスをする、いわゆる「ジャパゆきさん」へと自らの身体を接ぎ木していく。一方、ムラティ・スルヨダルモは『EXERGIE – butter dance』の中で執拗な繰り返しの行為へとその身体を差し出し、また長時間にわたる作品『I LOVE YOU』ではインドネシアからドイツへと移り住む顛末を追いながら、儀式的な身体へと回帰することによって、心の平静とは何かを問いかける。
同じくインドネシアのエコ・スプリヤントはジャワ島中部から遠く離れたジャイロロへの旅で、海の生活を営む若者たちと出会う。しかし、そこは宗教的な対立の渦巻く場所でもあった。スプリヤントは彼が発見した新しい「コミュニティ」との対話を重ね、時間をかけてパーソナルと芸術の両面で彼らとの関係を築いていった。そしてさまざまな側面における「違い」に折り合いをつけながら『Cry Jailolo』を創作し、「個人」と「集団」との間のコラボレーションの倫理、そして今日のパフォーマンスにおいて政治的に何が問題とされているのか、このふたつを探求している。
タン・フクエン
コンテンポラリーの舞台芸術および美術の分野で活躍するインディペンデントのカルチュラル・ワーカー。バンコクを拠点にアジアおよびヨーロッパで多くのプロジェクトを手がけている。第53回ヴェネツィア・ビエンナーレでシンガポール館の単独キュレーターを務めたほか、シンガポール・アーツ・フェスティバル、インドネシア・ダンス・フェスティバル、イン・トランジット・フェスティバル(ベルリン)、バンコク・フリンジ・フェスティバル、コロンボ・ダンス・プラットホーム(スリランカ)などでも仕事をしている。